アメリカ在住経験から見える宗教の衝突の原因について
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私は以前から宗教に関して関心を持ち続けてまいりました。べつに私個人は特定の宗教を信仰しているわけでもありませんが、宗教の社会に与える影響には大変興味がございます。先日、日本に帰国している際、「なぜ、一神教であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教は互いにいがみ合うのか」という質問を受けました。その場は酒の席でしたので、すぐに話題はべつのことに移ってしまいましたが、この間、この質問に関して思い起こさせるようなことが起きました。そのことについて書いていきましょう。
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宗教の話題で議論に
私は最近、Standup Comedyというアメリカのコメディの一種を習っています。そのクラスで一人の参加者が、「宗教」に関して一人話しをしたいと申し出てきました。私は「宗教に関してコメディの話をするなんて、勇気あるな」とその受講生の話を聞いていたのですが、この申し出がちょっとした話し合いの場を作り出しました。ある受講生は「宗教はやっかいだぞ」というと、私も他の受講生もうなづきます。
意外なことは、クリスチャンと思われる大多数の受講生が基本的なキリスト教に対する知識を持ち合わせていないようでした。
「イエス・キリストも神も同じだもんね」
という意見に、ユダヤ系の受講生は同意を示しません。私も最初は黙っていたのですが、抑えきれず、珍しく宗教の話題に参加をしました。私の披露した知識は「"Oh my god!" と言っちゃダメ!? ― 神の概念について」で書いたこととほぼ同じですが、ユダヤ教の神の名前は出しませんでした。
なぜなら、神自身が「みだりに神の名を呼ぶな」といっているので、正確な読み方さえ失われた現在では、私のような異教徒がユダヤ人の前で神の名を呼ぶことは憚れたからです。代わって「The Creator(造物主)」という言葉を使い、この三大宗教が同じ造物主=Godの概念を持っていることを説きました。
極東から来た異教徒が持つ豊富な(?)知識に皆が驚いたのかもしれません。皆、私の説明に聞き入り、最初に発言した受講生はもっと深く掘り下げてリサーチすることを勧められていました。
なぜユダヤ教、キリスト教、イスラム教は摩擦が起きるのか?
この体験は、日本の飲み会で話題に出た疑問を思い出させました。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、皆同じ神を信じているとすれば、なぜお互いに摩擦が起きるのでしょうか。私の過去の経験を思い起こしてみると、イスラム教徒の知人がカトリックの教会に行き、司祭の述べる内容に間違いがあると指摘したことがあります。とあるユダヤ人が、いかに神によってLOVEされているのか、延々と話しているのを見たことがあります。
また会社でも、アメリカ人同士のひそひそ話で、「奴はクリスチャンじゃねえぜ」といっているのを小耳に挟んだこともございます。ユダヤ人の友人の家にパーティーに呼ばれた際、ユダヤ人だけが一室に集まって盛り上がっていたのは単なる偶然でしょうか。
同じ神を信じる宗教でも、なにかしら目に見えない溝のようなものがあり、その隔絶が日常の生活の中で鼻先をかすめます。私のように外国からやってきている人間にはちょっと目に見えにくいところがあり、その隔絶、摩擦の根源は何なのでしょうか。
この疑問に応えるのは容易ではありませんが、私も私なりにリサーチしてきました。ひとつのはっきりした回答を挙げている著書に、井沢元彦著「<決定版>世界の[宗教と戦争]講座 (徳間文庫) 」が挙げられるでしょう。井沢氏はこれら三大宗教の最古参であるユダヤ教にあったメシア信仰を取り上げています。
ユダヤ教はユダヤ人を対象にした宗教です。ユダヤ人は神様に選ばれた民族という「選民思想」を持っておりました。よって神の意志によって救ってくれるメシア(救世主)が現れるという信仰が起こりました。ところが今から二千年ぐらい前に救世主という評判のたったイエスという人物は、ユダヤ人が期待していた救世主とは違いました。本来期待していた救世主は他の国を占領したりという軍事指導者的なイメージだったのですが、イエスは「悔い改めよ」などといい、軍事的なことは一切いわない人でした。そのイエスへの不満が彼の死刑に発展するのですが、ここで注意点があります。
イエス・キリストという呼び名
イエス・キリストという名は「山田太郎」というような固有名詞ではありません。もとはナザレという町出身のイエスという名のユダヤ人大工がおり、キリスト教徒は彼のことを「イエス・キリスト」と呼んでいます。キリストという言葉は、ヘブライ語の「メシア」のギリシャ語形だそうです。よってキリスト教では、イエスがメシアであり、神の子であると信じ、彼は人類の罪を背負って死んでくれた、その死によって原罪が贖われたと信じています。
私のいたコメディの授業で発言のあった「神とキリストはおんなじだもんね」という考えは、極めてキリスト教側からの視点に立った発言であったといえましょう。ユダヤ人の受講生二人とも首を横に振っていたのも不思議ではありません。
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神の言葉をどう伝えるのか、という点で相違がある
そしてイスラムが最後の預言者であるモハメッドが「真の」神の声を聞いたということで始まります。系統的にはユダヤ教、キリスト教の影響を受けていますが、完全なかたちとしてできあがったといいます。よって、イエスもキリストではなく、イスラム教の中ではあくまで預言者の一人です。ユダヤ教もオリジナリティを保持する意味でイエスをキリストと認めていません。結局、この三宗教ともに、神を信仰するという意味では同じなのですが、神の言葉をどう伝えるのか、という点で違いがあり、イエスをキリストとして認める認めないで、大きな相違があるといえましょう。
日本人の感覚
しかし、日本人の感覚からすれば、どうせ同じ神を信じているんだから、皆で仲良くすればいいじゃん、という考えを持っても良さそうです。しかし、井沢氏はこの考えは極めて日本的で、一神教には通用しないと強く否定します。
日本人はとにかく話し合いをすれば、お互い人間なんだし、まとまるというふうに考えていますが、そういう話し合いでまとまらないのが一神教の世界なのです。
- 井沢元彦著「<決定版>世界の[宗教と戦争]講座 (徳間文庫) 」177ページ
私はアメリカで日常生活をしていて時折、ほんのちょっとした時に一神教徒に対してある種の「怖さ」を感じることが正直、ございます。敬虔なクリスチャン同士が「ああ、あの人は非常にナイスなクリスチャンで、すごくいいよ」と仲間内で話したりしているのを小耳に挟むと、私のような異教徒は、「じゃあ、オレはナイスじゃないのか」とつい思ってしまうのです。
最後に
歴史を紐解いてみると、宗教がらみの戦争、紛争はゴマンとあり、あまり表立って宗教に固執しない日本人には理解し難いところがございます。しかし、海外での生活は自分の宗教を真剣に信仰している方々が数多くいるので、決してバカにしたり茶化したりしないようにしたいものです。
おそらくアメリカに来てアメリカ人の輪の中に入っていく機会が増えるに連れ、宗教の話が鼻先をかすめるようになると思います。基本的に宗教の話になったら沈黙しやり過ごすのも賢い手ですが、相手が何を喋っているのか、考えているのか、知識を持ってから臨んだほうが身を守りやすいです。語学力も大切ですが、その先に待ち受けるのはイデオロギーの違いだったりします。これから海外で生活される皆さんが、今回のような話を頭の片隅に入れておいても損はないと私は思います。
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この記事を書いた人
初めまして!日本の大学を卒業した後、米国の大学院に留学し漂流し続けること10数年。今年で米国生活16年目になります。お笑い好きの40男が加齢臭を漂わしながら、ミシガン州デトロイト近郊から海外生活と留学の知恵や経験をお届けします。