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タイに行くなら知っておきたい!仏教の国タイにおける仏教観・宗教観とは?

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日本では仏教や宗教というと、あまり良いイメージがなかったり馴染みが薄いものだったりしますが、タイは「仏教の国」と呼ばれるほど、仏教の考えが人々の生活に根付いております。仏教が何故タイ社会に浸透しているのかを知ると、実はそれは日本人の中にも存在する考え方に近いものだったりします。ここでは、タイ仏教とはどのような存在なのかについて、筆者が経験し感じてきたことを元にお伝えします。

タイ人と日本人の仏教観・宗教観の違い

タイ人の多くが仏教徒であり、多くのタイ人の行動や考え方の根本は「仏教の教え」に基づいています。タイではお寺は神聖な場所であり、日頃の「 タンブン (功徳を積む)」から出家の儀式、葬式など、さまざまな行事が行われる場所です。

更に高級デパートやホテル、オフィスビルの目の前など、必ず地主神や精霊などを祀る祠があり、そこにお供えをしたり、毎日手を合わせるのが習慣化されています。そして「自分は仏教徒ではない」と言うタイ人はいても「自分は無宗教だ」と言うタイ人はまず見かけません。

日本の場合、「宗教」というと「怪しい」と考える日本人が多いようです。例えば「この聖水を飲めばどんな病も治る」「この壺を買って家に置けば運気が上がる」と言って、おかしな物を高額で売りつけた挙句、さらに怪しい教祖や神を信仰させお布施を要求する、というイメージを持っている方も多いのではないでしょうか。

これらの例については、恐らく宗教が日本人に馴染みがない文化であるのを良いことに、詐欺の手口として利用されているのでしょう。そのせいで「宗教=怪しい=関わりたくない」といった図式が出来上がっている人も多いのかもしれません。また、日本では宗教とは強制的に崇拝したり、信じる神に毎日祈れば助けてくれるといった、面倒だったり厄介なイメージを持っている人も多いのではないでしょうか。

しかし、本来宗教とは、誰かに強要されて信仰するものではなく、その教えや考えに共感できる人たちが、自然にその道に入ることを決めるものであるはずです。

確かに世の中にはさまざまな宗教があり、一部の食べ物や行為を禁ずる宗教もあります。しかし一般的なタイ仏教にはそういった決まりはありません。毎日普通の生活を送り、自由にやりたいことをして生きていきます。出家して僧侶として生きるつもりでなければ、無理に何かを断つ必要もありません。もちろんお寺や僧侶から強制的に何かを買わされることもありません。

そして「あいつは○○教だ」などと、差別や喧嘩の原因になることもまずありません。何故なら「タイ仏教」とはもっと広義的な存在で「善い行いを日頃から繰り返し、物事に執着せず人として正しく生きなさい」という、人として当たり前の行動を身に付けるための教えなのです。

日本人も心の何処かで神頼みをしている

日本人が無宗教だと主張しても、誰しも無意識に何かを信じたり、祈る気持ちになるときがあるのではないでしょうか。例えば試験に合格したいと神社に祈願しに行ったり、好きな人と結ばれたいと縁結びの地に行ったりすることがあります。

それらは祈願する対象(神か仏か)が具体的に浮かばないだけであり、結局は宗教を信仰する人々と同じ気持ちなのではと思います。恐らく日本人も神様や精霊のような存在が居ると、心のどこかで思っているのではないでしょうか。そして何かを叶えたいときには神社へ向かう、という人も多いと思います。それが一般的な日本人にも定着している宗教感であると筆者は考えております。

「無宗教だけど初詣や願掛けには行く」というのは、聞いていてなんとなく不自然に感じることがあります。本当の無宗教であれば、お寺や神社といった、神仏を祀る場所に行ったり、「交通安全」のような御守りを購入したりする必要はあるのでしょうか?「罰当たり・天罰」や「日頃の行いが良い」なんて考えたり言ったりするのでしょうか?

恐らく心の何処かでは、そういった存在に畏怖の念があるのではないかと思います。

タイ仏教の教えに救いの神は出てこない

タイ仏教では「輪廻転生」の考えがベースになっています。生きている間に繰り返し善い行いを積むことで、次に生まれ変っても、不自由のない人生を迎えることができる、というブッダの教えが全てということになります。つまりそこに神の助けはありません。

切羽詰まった状況に陥ってからお寺や神社で神頼みをするのではなく、日頃から功徳や善行を積み重ねなさいと教わります。そうすればその行動が自身に返ってきて、陥れたり悪いことを考える人間と関わることもなく、困ったときも周りに救いの手を出してくれる人が現れる、全ては自身が清く正しい行動をしてきたかどうかで決まる、そういった教えであり考え方なのです。

日本でも「自業自得・因果応報」という言葉を聞いたり、使うことがありますが、その言葉こそ仏教の教えと言えます。タイ仏教では今の人生に不幸が多いとすれば、今までの行いが悪かったのだと考え、未来や次の来世のために、これから功徳を積もうと考えます。

要するに、これらは私たちが最初に両親や学校から教わる道徳心を、更に自分の意思で深く追求しなさいということなのです。

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日頃の功徳の積み重ねと、過ちを容認して生きる

このように、タイ仏教は日本人がイメージする、煩わしい宗教と言うよりは「一生を通して正しい行いを繰り返し、その中で出来うる限りブッダの教えを理解しなさい」という自身を高めていくための手段の一つとして広まっています。

そもそもタイ仏教には勧誘という考えはありません。タイ人の生活スタイルや、幼い頃からの家庭事情を聞くと分かりますが、大人になってから勧誘や強制されるというものではなく「小さい頃から親が教えることや家の習慣=仏教の教え」といった自然な流れになっています。

ですから「仏教という宗教を信仰しよう」と思うのではなく、仏の教えを実践して行こうと思う心が「仏教徒」であるという認識になります。タイ人の中にもイスラム教徒やキリスト教徒は存在しますし、彼らには彼らの教え・聖典があり、幼い頃からそれに沿って生活してきただけ、という認識になります。

そして中には大人になってから、他の宗教を信仰するようになったり、仏教徒ではあるが熱心ではないという人も大勢います。しかしタイに来たばかりの日本人の中には「仏教=宗教」という図式があるため、お寺できちんとタンブンしたり、お坊様の話を聞いたり、仏教の教えに興味を持つ人も少ないように見えます。

しかし、皆さんが外国人としてタイで生活し、タイ人と関わりを持つ以上は、最低限のお寺でのマナーや、仏教に関するルールは勉強しておくべきですし、信仰している人々に対し、自分は知らないし関係無い、といった態度を示すのは良く見られません。

筆者はタイ人の身内の葬式をタイのお寺で経験しており、日頃からお寺にタンブンへ行くため、お寺でお坊様の話を聞く機会も多くあります。そこでお坊様が話す内容の多くが、まずは自身の親に感謝しなさい、今既に持っている物に感謝しなさい、欲深くならず身の丈にあった生き方をしなさい、といった両親や学校の先生から諭されるような内容ばかりです。

しかし、ある程度大人になると、そういったことを教えようとしてくれる人というのは、周りにあまりいないのではないでしょうか。タイでは修行を積んだ高僧の身分は王族より上(人とは一線を引く存在)として扱われます。ですから、どれだけ社会的地位や身分が高くとも「人として間違ったことをしてはいけません」「自分より弱い相手や持たない者に、自分が与えられる物を分けてあげなさい」と諭すことができるのはお坊様だけなのです。

タイ仏教の僧侶とは、言わば、全ての人に人生のアドバイスをしてくれる存在として、常に必要とされている存在なのです。

「タンブン」は寄付や募金、ボランティアなどの意味もある

タイ仏教でいう「タンブン」とは、何もお寺ですることだけに限っておりません。タンブンとは寄付や募金、ボランティアなどを総称して言う言葉でもあります。

お年寄りや困っている人に親切にする、タイでは多い野良犬や野良猫の保護をする、学校や病院・孤児院などに衣類や食料を送ったり、地方の道路やライフラインを作るための資金に募金したりなど、要するに人や動物のためになることであれば全てタンブンと呼ばれています。

そして、タイ人はある程度立場や収入が安定していると、日常的にこういったタンブンを行っています。もちろん彼らの給与は、外国人の半分以下の場合が殆どです。それでも惜しむことなく熱心にタンブンをする人が大勢います。

海外のハリウッドスターや、世界的なスポーツ選手なら、天災があった被災地や恵まれない子供たちに、ポンと寄付する人もいます。しかし、そういった人たちとはかけ離れた一般人であるタイ人ですら、手元にまだあるお金や物で、自分より恵まれない人や、地域を豊かにする方がもっと良いのではないか?と、自ら考え実行できるのは非常に素晴らしいことだと思います。

今までにそういった習慣がない、もしくは興味がない人の中には、自身の稼ぎや財産を出し惜しむ人もいるかもしれませんし、寄付なんて見栄だと思う人もいるかもしれません。タイでも同じで賞賛する声もあれば、見栄だと陰口をいう人もいます。自身は何もせずに他人の陰口や悪口を言う人たちがいるのは残念ですが、恐らく世界共通なのです。

それでもタイ人の多くが相手に見返りを求めず、無償の気持ちでタンブンや寄付をしていくのは、やはり仏教の教えが根付いているからだと思います。

おわりに

宗教と聞くと日本人の中では悪いイメージなのは、それもある種の日本文化なのかもしれません。しかしタイに限らず世界では、日常的に宗教に接する機会が多くあり、そこで自身の信仰心が芽生えるというのはごく自然な流れなのではないでしょうか。

留学生の皆さまもタイで生活して行く中で、何故タイには仏教の教えが浸透しているのか、と言うことをニュートラルな立場で考えて、一度タイ人と同じようにそこに身を置くのも良い経験になるのではないでしょうか。少なくともそれを悪く思うタイ人はいませんし、より深くタイを理解するきっかけになるのではないかと思います。

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