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なぜ日本は自殺大国になったのか?場の倫理を重んじる日本人

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前回の記事『「だって英語ができないから」は思考停止のサイン?英語の公用語化に対する私見』で、「自殺」が私の留学に影響していると書きました。今回は、なぜ日本が自殺大国になったのか、私の自殺論について書いてみたいと思います。

自殺に対する考えが変わった出来事

私が日本で大学生だった1996年頃、電車への飛び込み自殺が多発しておりました。実家住まいだった私は、大学まで1時間毎日通学をしていたのですが、当初はこの自殺を不徳にもラッキーと思っておりました。なぜなら、電車に飛び込み自殺があると授業が休講になり、友達と遊びにいけるからです。

乗車中の電車が急停止

ある夜半、大学帰りの電車に揺られていると、電車が急ブレーキをかけました。あいにく車両の一両目にいた私は、踏切にダンプトラックや車がいたら即座に死ぬな、という考えと不安が頭にかすりました。

あいにく、車両前方に目をやっても、車内の蛍光灯に窓が反射して前方がよく見えません。それよりも、隣に立っていたかなり太めのご婦人が、慣性の法則で私の方に倒れてきており、つり革に掴まって体を支えるのがやっとです。電車の運転手は何か悲鳴を上げていたように思いますが、気のせいかもしれません。

かなり踏切を通り越してから電車は止まりました。運転手が窓を開け、「大丈夫かー!」と大声で後ろに向かって声をかけますが、誰も声を返してきません。車内の乗客たちも顔面蒼白になっており、私は駅に着く前にそこで降ろされ、徒歩で家路についたことを憶えております。

私はそれまで他人の自殺には一切無関心だったのですが、この経験を機に自分の人生を考え始めました。

私の留学に影響

当時、すでに大学の英語研修の一環でイギリスに滞在したことはあり、自分が留学に興味があることは分かっておりました。ただし、問題はその留学に乗るか、否か。留学をしたとしても就職がうまくいくという保障はありません。第一、自分にそれだけの学力、ならびに脳みそがあるという自信もありません。

ですが、当時、新聞を賑わしていた自殺の報道を見てみると、会社から解雇をされたり、肩たたきにあったお父さんたちが亡くなられていたようです。多分、会社からの給与がなくなったために金銭的な理由なんだろうなと当時は考えておりました。

このような日本の状況をみて、最終的に私は留学に乗ることを選びました。

アメリカの大学院で学んだ自殺論

1999年、アメリカに留学をして大学院の授業に出てみると、「自殺」が大きく取り上げられておりました。フランスの社会学者である エミール・デュルケーム が、「 自殺論 」という著書を残しています。

この著書では、統計上のデータを使って自殺を説明をするという初めての試みをしています。客観的なデータを使って社会を説明する姿勢を打ち出した点で非常に画期的です。使われているデータは1897年出版当時ですので非常に古く、現代ではあまり意味をなしません。ただし、彼は自殺を下記の4つに分類をしています。

・Egoistic Suicide (利己的な自殺 孤独や焦燥感が原因)
・Altrustic Suicide (利他的な自殺 集団に合わせてする自殺、殉死など)
・Anomic Suicide (社会的規範がないため、起きる自殺)
・Fatalistic Suicide (社会規範が強くて起きる自殺)

私はこの本に対するディスカッションで、日本のデータが古くディルケームは日本は非常に自殺率が低いと紹介しているのですが、日本は有数の自殺大国になりつつあることを指摘しました。上記の私自身の体験を紹介し、現在(留学当時)の日本人のサラリーマンの自殺はおそらくEgoistic Suicideという小論文を書いて、単位をもらったことを憶えております。

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日本の自殺率が高い理由

しかし、アメリカに長く住むに連れ、簡単にEgoistic Suicideと分類するには早計だったかなと考えるようになりました。

留学当初、色々と人間関係に揉まれた結果、「場の倫理」なる行動規範に気づきました(参照: 海外で日本人同士の人間関係を上手く乗り切るには?-場の倫理と個の倫理 )。この場の倫理を提唱する臨床心理学者の河合隼雄氏は、日本では場の外にでることは死を意味するとさえ書き残しています(参照: 母性社会日本の病理 )。

このことを裏付けるデータとして、内閣府が公表している日本の自殺推移の統計が参考になります。

厚生労働省「人口動態統計」

高度経済成長期であった1960年から1970年の初頭まで、場を形成する大きな要素である終身雇用・年功序列が機能していたため、かなり自殺率は低く、1996年に自殺率は急激に上昇しています。1996年当時、企業で肩たたきや窓際などの評価の低い従業員への圧力が急速に問題になった時期だったことを私自身もはっきり憶えております。

この自殺率の増加にある背景として、会社を解雇されたことによって金銭的に困窮し自殺に至ったケースもあるでしょうが、場からの追放によって自殺したケースもかなりあったのではないでしょうか。

91年からのバブル経済崩壊の余波を被りつつ、96年はWindows 95の登場によって急速にインターネットが普及します。個人レベルで膨大な情報にアクセスできる時代へと転換していく中、急速に倫理観の混乱が起きたと考えています。

つまり、社会において場の倫理から個の倫理への転換が始まったため、個人において倫理観の混乱が起きたのではないでしょうか。また自殺率が高止まりしているところをみると、その混乱は収束していないようです。

こうやって考えてみると、現在の日本の自殺率の高さは、デュルケームの分類で言うところの、Egoistic SuicideとAnomic Suicideが混合していると考えても良さそうです。日本人にとって、場は倫理観の規範ですから、その場から追放されるとなると規範がなくなってしまいます。 私の大学院時代の小論文はちょっと、踏み込みが浅かったと現在では反省しています。

建前で「個性」を求める日本の教育

ただ、私がちょっと解せないのは、日本の教育です。私が大学生だった頃、「個性を出せ」や「自分の意見を言え」とよく言われておりました。しかし、実際の社会(会社)に入ればそんなことは建前でして、会社の利益がでることは歓迎されますが、非利益的な活動(往々にして個性的な場合が多い)は抑制を求められます。

実際、ゼミの学生たちも借りてきた猫のごとくおとなしいのが常でして、そういう意味では皆さん、「オトナ」でした。上記に挙げた「個の倫理」「場の倫理」に関しても周囲の大人は教えてくれず、私は自分で文献を見つけなければいけませんでした。暗黙に「場」を強制しておきながら、かたや教育では個の自立を叫ぶ大人たちを私はあまり好きではありません。

これからの国際化社会に向けて

私が日本の社会について考えるようになった理由に、アメリカに留学をし、日本を客観視できるようになったこともあるかもしれません。日本で毎日、アクセク働いていれば、場に飲み込まれ、普段の生活を不思議とも思わなくなりますから。

現在の自殺率が高止まりになっている理由がいろいろ考えられると思いますが、日本社会についての知識・理解の欠落が隠れているのかもしれません。倫理観の混乱の原因への認識が広がれば、死に急ぐ人も踏みとどまるかもしれません。それは取りも直さず、これからの国際化社会のために必要な姿勢になるはずです。なぜなら、海外から来た日本在住者に、

「あなたの宗教、何ですか?」
「ラマダンの最中なので、得意先とのランチ、参加不可です」
「根回しのために今晩、飲みに行きたい?あなた、意見あるなら会議でいいなよ」
「わたし、ユダヤ教徒なのでカツ丼は食べられません」
「ビーガンなので、味噌汁の出汁、とらないで」
「有休とらないの?私は取ります。後はやっといて。なに?自分勝手?あなたも有休とればいいじゃない。何いってんの?当然の権利よ」

というようなことをいわれたら、みなさんはどう応えるのでしょうか。その対処のために、なぜ、自分が己の考えに固執するのか、自分で自分に説明をしなければいけません。これは苦しい作業です。なぜなら、それまで漠然と当然としていた自分の考えに、メスをいれることになるからです。

最後に

このTHE RYUGAKUで、私は何度も文化について記事を書いてきました。ひとえに海外生活に大切なことは、言語だけでなく、社会や文化についての理解だと考えるからです。実はもうひとつ、大切な要素があると思うのですが、それに関しては又の機会に譲りましょう。

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