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アメリカでボケ・ツッコミは通用しない!?アメリカと日本の「笑い」のセンスの違い
アメリカに住み始めて多くの日本人の方が気づくことのひとつに、「笑い」のセンスが違うことが挙げられます。テレビのトークショーを観ていても、アメリカ人がなぜ笑っているのか分からない、笑うタイミングが合わない、ということはよくあります。日本では感情を喜怒哀楽で表しますが、とかく「楽」の笑いに関しては、アメリカと日本では大きく違うようです。
日本人には理解し難いアメリカン・コメディ
1999年に渡米した私は、アメリカ人の友人に連れられ、渡米して初めて映画を観に行きました。観た映画は「 Austin Powers: The Spy Who Shagged Me(邦題:オースティン・パワーズ:デラックス) 」で、映画がかなり下ネタ満載であることはわかりましたが、全然理解できずかなり長い二時間だったことを憶えております。
私の回りの日本人に尋ねても、アメリカで結婚し子供をもうけて10数年経っている人でさえ、家族との団欒でテレビを観ていてコメディだけは一緒に笑えないなどの不満を口にします。英語スピーチ専門の日本の大学教授からも同様の感想を聞いたことがあります。
コメディの理解は外国人には一筋縄にはいかない大変レベルの高いものだということがいえそうです。
世界共通で笑いがとれるコメディアンはいない?
考えてみれば、日本にも数多くの芸人がおりますが、アメリカでも有名な人はどれくらいいるでしょうか。お笑い出身のビートたけしは、映画監督の北野武としては世界で有名ですが、お笑い芸人としてはあまり知られていないでしょう。
アメリカにも同様にコメディアンは星の数ほど多くおりますが、 Mike Myers (正確にはカナダ出身)や Adam Sandler といったアメリカで活躍するコメディアンも、日本ではそれほど有名ではないのではないでしょうか。
Autsin Powersも世界中でヒットしたと言っても、アジア圏でどれほど当たったのか疑問です。ギャグの意味を日本語の字幕で見ても、意味がつかめないのではないでしょうか。
世界的に有名なコメディアンに Charles Chaplin がおりますが、彼はパントマイムをベースとした動きで見せるコメディアンでありました。しゃべりを基軸としたコメディアンは世界に進出するのが難しいと考えて間違いがないようです。
「ボケ」のみのアメリカ
かくいう私も現在コメディをやっている身ですから、お笑い好きです。渡米直後こそ英語がよくわからずおとなしくしておりましたが、しばらくすると周囲の人間を笑かすことに注力するようになりました。そこでおかしな現象に気づくようになりました。
笑いのタイミングに対して、日本人と比べてアメリカ人のレスポンスがワンテンポ早いように感じたのです。つまり、ツッコミを待たずに笑う。また、私が面白いことをいって周囲が受けたとしても、誰もツッコミをしない。
日本人は笑いの基本は「ボケ」と「ツッコミ」だと考えていますが、アメリカ人はボケだけでコメディを成立させているようなのです。私は数年前にImprovisation(参考記事: アメリカ版の漫才?即興コメディ「Improv」の魅力と面白さ )をやり始めてから、アメリカではこの「ツッコミ」の影が薄いことに気付きはじめました。
例えば、アメリカのお笑いには、Standup Comedyというジャンルがあります。これはひとりのコメディアンが聴衆の前で何か面白いことをいうのですが、ひとりでやりますから、ツッコミは基本的になし。
往々にして強烈な下ネタと人種ネタが入るのが一般的ですが、日本のお笑いに人種ネタが入ってこないのは、まあ日本には黄色人種ばっかりですから、しょうがないでしょう。下ネタは万国共通です。
対の文化の日本
では、なぜ日本の笑いにツッコミがあり、アメリカには存在しないのでしょうか。私は日系アメリカ人の友人にその点について問いただしたのですが、ボケとツッコミの訳語自体が存在せず、せいぜい、
ボケ = a funny man
ツッコミ = a straight man
ぐらいにしか訳せないとのこと。試しにその友人と2人で、英語で日本の典型的なボケとツッコミを韓国系アメリカ人の奥さんの前で披露したのですが、いまいちポイントが掴めないようで完全に私たちは滑ってしまいました。
ボケとツッコミの学術的な研究
日本のボケとツッコミに関して、何か学術的な研究がなされているだろうと思い、Amazon.co.jpで検索をしたのですが、なぜか、お笑いに関して社会学的、言語学的、文化人類学的研究がそれほどなされておらず書物も多くないようです。
これは、考えてみればちょっとおかしな話です。日本でもお笑いは昔から、狂言、寄席、落語といったように庶民の楽しみでしたし、現在でもお笑いブームといわれており、数多くのお笑い芸人が活躍しております。しかし、大学の講義、プレゼン、講演などでギャグ満載の話をする人は少なく、アメリカ人が聴衆の前でユーモアを交えながら話すのとは対照的です。
一見すると、日本人はお笑いに関して肯定的なのか否定的なのか、よく分かりません。
南原清隆氏の「狂言でござる」
そんな中、ウッチャンナンチャンの南原清隆氏が書いた『 狂言でござる 』を手に取りました。私は日本を離れて16年ですので、いまだにウッチャンナンチャンが活動をしているのことに驚いたのですが(ごめんなさい)、この本が意外なことに掘り出し物で(もっとごめんなさい)、私は大変楽しめました。
ナンチャンは現在、狂言を学んでおり、実際に現代的なお笑いをミックスした現代狂言の活動をしているそうです。ナンチャンもこの本の中で、アメリカのコメディでツッコミが存在しないことを指摘しております。
ナンチャンは日本の「対の文化」について指摘しており、神社の狛犬、金剛力士像、寿司屋の寿司が二貫、狂言の「太郎冠者」と「次郎冠者」というコンビを例にしています。この国にはペアで存在する概念が多く、ボケとツッコミもそれを源流にしているのではないだろうかと述べています。
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宗教が混在する日本
私はナンチャンの「対の文化」に関する一節を読んだ時、すぐに一神教、一元論が頭の中に浮かび上がりました。
現代の世の中は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった一神教がメジャーです。アメリカもプロテスタントが切り開いたキリスト教国です。一方で、日本ではご存知のように、仏教や神道が入り混じった社会です。
私は去年、日本に一時帰国した際、東京は新宿の穴八幡宮に御札を買いに行ったのですが、鳥居の前にお坊さんが立っていた光景が、私には大変日本的な光景に写りました。
考えてみれば、穴八幡宮は神社なわけですから、鳥居の前に袈裟を着た仏教のお坊さんが立っているのは文字通り「お門違い」なわけです。それを誰も疑問に思わず、師走の中、足早に街人が歩き去っていきます。
さらには近くに教会まであり、神道、仏教、キリスト教が一角に共存するという状況を、私は大変日本的な光景だと好ましく思いました。なぜ、好ましく思ったのかというと、それは宗教というものは通常、異教徒に対して大変排他的なものだからです。
この点は、小室直樹著『 日本人のための宗教原論―あなたを宗教はどう助けてくれるのか 』でも指摘されており、歴史を学んだことがある人ならば、宗教の衝突によって多くの争いが起きていることを思い起こすまでもありません。
仏滅を避けて教会で結婚式を挙げる日本人
それにも関わらず、なぜか日本では宗教が混ざり合い、私たちは神社とお寺にお参りし、なおかつクリスマスを祝います。仏滅を避けて、教会で結婚式を挙げるカップルも存在することでしょう。
この事象に関して河合隼雄氏は『 中空構造日本の深層 』に理由を見出しているのですが、日本では、新しい思想を吸収しても、中心の思想には成り得ず、中心には何も存在はしてない精神構造なのです。
多様な価値観が脇に鎮座する背景がボケとツッコミに繋がるといったら、考えすぎでしょうか。日本のお笑いに関しての学術的研究が待たれます。
間とタイミングでアメリカ人を笑わせる
もう一つ、ナンチャンの指摘で面白いなと思ったことに、最近のお笑いの動向があります。ナンチャンは、最近のお笑いはテーマが細分化され、よりディテールにこだわった笑いに向かっていることを指摘しています。
非常にスローテンポかつ「間」を大切にする狂言と違い、最近のお笑いはアップビートで細かく状況を多弁に伝えていきます。これはお客さんを笑いに導くまでのガイドとして機能し、お笑いの方向をひとつに絞っていく反面、お客さん側での多様な受け取り方を否定すると言っております。
これを私は、最近Improvisationをやっていて壁にぶつかりつつある自分の状況に重ねました。
英語力ではアメリカ人に勝てない
Improvisationでは即興的にコントを繰り広げていくのですが、行うゲームによってはラップをしながら韻を踏んだりという高等なゲームを行うこともあります。これが非常に難しい。私はNativeのEnglish Speakerではないので、アメリカ人と英語で勝負して絶対に勝つことはできません。
私の仲間の中には、日本で言うところの、しゃべくり漫才なみに多弁に英語をしゃべくりまくる連中もおり、そういった連中とImprovをやると、私は引きずり回されてしまうのです。それがうまい具合に、滑稽な笑いにつながってくれればいいのですが、笑いにならず、空転したままの状況になるのが一番怖いのです。
この英語力では勝てない状況で、笑いを取るにはどうしたらいいのか。ナンチャンのいう「間」がヒントになりそうです。
「タイミング」の指導
実はImprovをやる人は、acting(演技)も学ぶことが多く、コメディアンに演技力も求められることを否定する人はいないでしょう。私もactingのレッスンを受講したことがあるのですが、その際、「Timing(タイミング)」に関して非常に細かい指導を受けました。
ある時、Actingの授業で、二人で対になり、数分程度の無言劇をやることになりました。台本は自分たちが書くのです。割り当てられた私の相方は20歳代のアメリカ人大学生。演技は初めてだそうで、Improvのプロ(?)の私が台本を書きました。台本の中身はどうせ私が書きますから、コメディです。
ある日、ソファに身を投げ出して男(わたし)がビールを飲みつつ、爆笑しながらコメディ番組を観ている。ルームメイト(私の相方)が何か興奮しながら帰ってきたのに気づき手を挙げて挨拶をするが、すぐにコメディに注意が向く。ルームメイトはそんな男にむかって、マッサージ師になるためのクラスで習った秘技を試すべく、突如、男の胸をつかむ。男は何が起こったか分からず、一瞬ビールを飲む手を止め、手を払いのけようとするが、superかつGreatにしてSpecialなテクニックが醸し出す快感に抗えず、ついにイッてしまう・・・
という非常にクダラナイ内容なのですが、この台本が私のインストラクターの目に止まり、細かい指導が入りました。曰く、ルームメイトが帰ってきた時に、私は軽く手を挙げ気を配るが、すぐにテレビに集中せよ。ルームメイトが手をポキポキながらしながら、突然私のオッパイを掴んできたと同時にビールを飲むしぐさの喉を止め、数秒間、静止せよ・・・
無言劇でしたが、タイミングを調整し、表情と視線を工夫することにより、情報は的確に聴衆に伝わっていきます。この数分間の劇は先生の指導の下にブラッシュアップすることによって、観ているクラスメートの笑いを十分に勝ち得る評価の高い劇に変わっていき、三回目に演技をした時は、完璧なタイミングで表情、視線、しぐさを行うことで、観客をのけぞらせるほどの笑いを取ることができました。
解釈を聴衆に委ねて笑いを取る
英語でいうところのTiming、間を工夫することによって笑いを勝ち得ることは十分に可能です。この狂言でも重要視する「間」がなんとか私の武器にならないでしょうか。私はどうせ逆立ちしてもアメリカ人のように英語でしゃべくりまくることはできません。
では逆に言葉数を少なくし、最小限かつ的確な情報を聴衆に伝えるだけで、面白みの解釈を聴衆に委ねることはできないでしょうか。現在の笑いの流れとは真逆かと思いますが、ここに私の活路を見いだせないでしょうか。
実際に私はImprov授業や舞台の後、観ていた先生から、演技の授業を取るよう勧められることが多く、最初はただのリップサービスかと思っておりました。生徒数を確保しないと運営側のComedy Clubは経営が成り立ちませんから。ですが運営には直接関わっていない先生たちからも促されるにつれ、自分に必要なものが演技の勉強なのではないかなと考え始めています。
正直申し上げて、このナンチャンの本が期待以上の収穫でして、中古で買ったことを申し訳なく思うくらいでした。今年の年末に再度、一時帰国しますが、狂言の舞台を拝見してこようと考えています。南原清隆さん、今日から私はあなたのファンです。