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海外在住者が感じる「モヤモヤ」の正体とは?留学生は劣等コンプレックスを抱えやすい宿命

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先日書いた人種偏見に関するコラムに予想以上の反響がありました。そこで今回はその補足を書きたいと思います。私の過去のどのような経験が、前回のコラムに影響したのか、などご紹介します。

私が『 その偏見は本当に「人種」に対するものなのか?私の人種偏見考察 』を書いてから二ヶ月あまり、このコラムに対する反響、感想が数多くブログなどに掲載されたことをこの場をお借りし、厚く御礼を申し上げます。

正直、このコラムを書いた際、ここまで個人的な内容をウェブというPublicなものに載せていいものか迷いがあったのですが、沢山の方に感想を書いていただけたということは、おそらく多かれ少なかれ海外に居住する方たちが、心の片隅で同様のことを感じておられるからに違いありません。

感想を書いてくださった方のおひとりが、ご自身の留学時のモヤモヤがよく説明されていると仰っております( 【オランダ留学後雑記】最近気になった異文化コミュニケーション系のコラムなど9選 )。そこで、今回は海外で生活する上での「モヤモヤ」に関して書いていきたいと思います。

どこに座るべきか悩んだアメリカの初授業

私がモヤモヤとした感触を意識した最初は、アメリカで受講した統計学の授業でした。初めての授業でしたので、早めに教室に向かったのですが、少々迷い、5分ほど前に教室に入りました。

すでに教室は20名ほどの生徒で埋まっており、空席がどこにあるのか見渡すと、その光景に目を見張りました。なぜなら、生徒がきれいに、「白」と「黒」に分かれて座っていたからです。その時、私の頭によぎった考えは以下の様なものです。

1. オレはいったい、どこに座るべきか。
2. アメリカの授業では白黒分かれて座るのかもしれない。だとしたら「黄色」専用セクションはあるのか?
3. ただの偶然の光景かもしれない。思い違い?どこに座ってもいい?
4. あえて、この黒セクション、白セクションに黄色の自分が座ったら不当な扱いを受けるのか?授業初日で賭けに出るか?

こういったコミュニティの暗黙のルールはどこにも書いていないため、アメリカ生活一年生の私はかなり神経質になっていました。結局どこに座っていいのかわからないので仕方なく、黄色い私は、白と黒の「境目」に座ったのでした。

大学院にもある程度慣れた頃、懇意にしている教授にこの体験を話す機会がございました。教授はアフリカ系(黒人)です。教授は私の体験に爆笑しており、「きっと学生は”自然”に分かれて座ったんだよ」といいます。私も同意したのですが、言い換えれば、それだけ白と黒の間に心理的距離があるということの証左なのかもしれません。

自分の心が勝手に作る「偏見」

あるアフリカ系の学生の心

12月に学部長の自宅で、クリスマスパーティーがあった時のことです。ひとりのアフリカ系の学生が、毎日の生活の中で偏見を感じると学部長にこぼしておりました。彼女いわく、友達ができなかったり、何かの拍子に他人からぞんざいに扱われると、shyな彼女は自分の人種に対する眼差しと感じるようです。

白人の学部長もその話を真剣に聞きながらも、「もしかしたら、その偏見と思うのは、自分の心の中から来るのかもしれないよ」と諭します。彼女が「私は黒人だから」とこぼすと、私の友人が「そんなこといったら、こいつはどうなんだ。アメリカ人でもないし、nativeのEnglish Speakerでもないじゃねえか。白人でも黒人でもないし・・・」と私のことを指差すので、苦笑せざるを得なかったのですが、学部長のいう「自分の心」という言葉が私には示唆的に響きました。

ある日本人留学生の心

後年、アメリカで就職し、しばらく経ってからの話です。当時の私の周囲では、何人かの日本の大学時代の同級生や後輩が留学を志し、私のもとに相談が参り込んでおりました。留学とは入念な準備を要するものです。一切の準備せずに東欧の某国に留学した一人の女性が、半年経ってもまったく軌道に乗らない生活について不平不満をぶちまけており、アメリカにいた私は手を焼きました。

曰く「外出したところ、ひとりの婦人と目が合った。相手が笑った。自分をバカにした」ということで、現地語ができない自分に対する人種偏見であるとのこと。西洋の方たちはアイコンタクトがあると笑う習慣があるので、「単純に習慣なんじゃないの?」と私は異議を唱えたのですが、相手は頑として聞かず、度重なる愚痴と不平だらけのヒステリー電話に、私は日本への帰国を勧めました。

「モヤモヤ」の正体とは

こういった海外で生活する上でよくわからないことや抵抗できない焦燥感、違和感は、一種のモヤモヤとした感情となって、心のなかで沈殿していきます。時に沈殿物を感情で爆発させる留学生もおり、周囲との人間関係を破壊する光景にも遭遇したことがあります。私は長い間、このモヤモヤの正体は何なのか、考えあぐねておりました。

モヤモヤだけに表現できない

問題は、モヤモヤとした感触ではっきりと言語で表現しにくいこと。はっきりと口頭で表現できないのですから、当然、他者とその感情を共有することは難しく、日本にいる家族や友人に電話で話してもイマイチ相手に意図が伝わらず、相手からはただ単に、ワーワー訳の分からない愚痴と不平の混じった感情を振りかざしているだけに思われかねません。非常に個人的な感情の揺れですから、同じ日本人留学生同胞に話そうにも、相手は限られてくるのが実情です。

「なんか・・・ちょっと違う」とか「っていうか、よくわかんないって感じ」という極めてあやふやな感情の揺れを母国語の日本語でも表現できないのですから、当然、英語でアメリカ人とその感情を共有することはほぼ不可能になります。

更に周囲の多くは外国で生活をしたことがないのですから、異文化の中で埋没して生活する違和感への理解を期待すること自体にムリがあり、時に留学生や単身の海外居住者は、孤独のなかに不満を抱えたまま、生活をしていくことになります。

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コンプレックスが背景にある

長年私はこのモヤモヤとした感情に対して何とかアプローチできないのか、試行錯誤していたのですが、ひとつの手がかりに出くわしました。文化長官をしていた河合隼雄著「 コンプレックス 」に、コンプレックスの持つ複雑さが述べられています。

例えば、どなたでも意味もわからずイライラしたことがあったり、どうしても虫の好かない人がいることと思います。その背景にコンプレックスが存在し、個人の主体性をおびやかすことがあると河合氏は書いています。

河合氏は長時間、大学教授に待たされた女学生の例を引き出し、やっと現れた教授に彼女がうっかり「長らくお待たせしました」といってしまった現象に、心の「分離」を指摘しています。つまり、心のなかでは多忙な教授を理解する気持ちがあった反面、自分を待たせた教授が謝ることを期待していた気持ちがあったため、主体性がおびやかされたのです。

ー 日本では英語はトップクラスだったのに、アメリカでは箸にも棒にも引っかからない英語力で素直にそれを認めつつも、Writing Centerで添削される自分の小論文に屈辱を感じる。

ー 自分の研究に自信を持ちつつも、英語でのプレゼンで聴衆に理解してもらえない自分の研究に対し、自分の発表の甘さを認めつつも、聴き手に理解の非を求めてしまう。

ー 山のような課題に留学をしたことの意義を感じつつも、課題をこなすことに倦怠と嫌悪を感じる。

など、留学経験のある私から述べさせていただくと、いくらでも分離の事例を挙げることができそうです。

劣等コンプレックス

私はこの著作で、 アルフレッド・アドラー の提唱する「劣等コンプレックス」に注目しました。考えて見れば、留学生は劣等コンプレックスを抱えやすい宿命であるといっていいでしょう。

英語力も不自由なままアカデミックなフィールドで勝負をしていかなければいけませんし、たとえ英語が理解できたとはいえ、パーティーでアメリカ人が話をするテレビの話題、子供の頃の小学校の授業、ローカルな話題などに加われず、悔しい思いをしたことは留学生なら誰でもあると思います。

河合氏は、コンプレックスは「感情」によって彩られなければいけないと注釈をつけています。例えば、ソフトボールが不得意な人が仲間と過ごす際、「オレ、下手だから」とボール拾いをしたりして仲間と時間を過ごすと、それはコンプレックスとはいえません。むしろ、無理してピッチャーをしたがったり、自分の失敗をぶつぶつとこぼす人間の方がコンプレックスがあると説いています。

劣等感は克服できるのか

それでは、自分の劣等を人間は克服できるのか。河合氏は人間の能力の限界を否定していません。

「人間は努力すれば何でもできる」と信じている人は幸福だ。われわれのように対人援助の仕事に従事しているものは、人間の能力に限界があり、われわれの抗し難い不可解な力が人間に働いていることを、いつも認めさせられるのである。(中略)われわれは時にいいようのない絶望感におそわれる。このような問題と必死に取り組まなかった人は、安易な楽観論をもつことができるだろうが。

河合隼雄 1971年 「コンプレックス」岩波新書 59ページ

留学を断念したり、どうしても海外生活に馴染めなかった人を数多く見てきた私は、「留学はやればできる」と他人に勧めることはできません。また私自身、いくら英語を勉強してもNativeにはなれず中途半端のままですから、英語はやればできるなんていうセリフもいえません。

ではどうすればいいのか。先ほどのソフトボールの事例が大きな示唆を与えてくれます。ソフトボールが自分でできないことを認めた人は、認めることによって尊厳性が損なわれないことを知っています。劣等の認識は自我と統合されているので、安定しているというのです。

無意識に抱いていた英語コンプレックス

私は以前、「 日本人がアメリカで漫才?同僚に「私の英語のせい」で仕事ができないと言われた日 」で自分の英語力をアメリカ人の同僚に足蹴にされたことを書きました。当時は利用されたことに大きな怒りを感じましたが、それは彼女が私の英語コンプレックスに触れたからなのかもしれません。

今はImprovに出会い、返って自分の英語力のなさが大きなセールスポイントになることに気づき、あの怒りの感情はどこかに消えてしまいました。この私の経験が、皆様への示唆に繋がることを希望しています。

最後に

考えてみると、留学生活や海外生活は自分との真摯な対話のきっかけになり得ることに気付かされます。日本では何気なく生活していた毎日でも、海外での些細な習慣の違いや体験が、自分の持つ劣等や、能力の可能性を暗示してくるかもしれません。

これから留学や海外生活を志す方たちに、モヤモヤとした感情が決して否定的な側面だけでなく、生産的な側面をも持ちあわせ得ることをご理解いただけたのでしたら、このコラムを書いた意味があるというものです。皆様の実り多き、海外生活をお祈りいたしております。

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