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知らない間に誰かを傷つけているかもしれない?私の戦争”非”体験

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毎年、5月の最終月曜日は「Memorial day」といい、兵役で亡くなった米国人を追悼するアメリカの祝日です。私はテレビで放映されている戦没者追悼式を観ていたのですが、戦争の影響は私達の心から、なかなか消えないのではないかと思うのです。このことを今回は書き綴っていこうと思います。

日本で日本人同士つきあっているとあまり戦争の影響は感じないかもしれません。私自身も、このサイトを閲覧されている読者の大半がそうであろう、戦争を経験したことのない世代ですし、「戦争」といえば、テレビや映画でやっているものです。ですが、海外に出て色々な国から来た人たちと交わると、事情が少し違ってきます。

ヨーロッパ人にとっての戦争の影響を垣間見る

私が初めてイギリスで語学研修を受けた際、教室の中から日本語なまりの英語が聞こえてきました。

「Your country is famous for ネオナチ~!」

と日本人の女の子が傍らに座っているドイツ人の学生に言っており、私は顔色を変えました。おそらく日本人の学生は会話の切掛をつかむためにドイツに対して知っていることをなんでも持ちだそうとしたのでしょう。

しかし、初対面の相手のトピックに対して、このネタはあまりに無配慮です。相手の学生はこわばった表情をすると、反対側に座る学生の方を向き会話を始めてしまいました。

アメリカの大学院に留学した際、寮の中に数多くのヨーロピアンの留学生がいたため、一時期、ヨーロピアンの学生と親しく交流する時期がございました。ある時、スカンジナビア系の留学生の一人が、寮の地下にある大画面テレビで皆と一緒に映画を観ようと提案しました。

私は誘われるままにポテトチップスを片手に参加したのですが、映画が始まるやいなや、イヤな予感がよぎりました。なぜなら映画が一時期話題になった、「 Life is beautiful 」であり、確かナチスのホロコーストを舞台にしたコメディ映画だったはずです。

案の定、映画が進行するに連れ、騒いでいたドイツからの留学生たちはおとなしくなり、映画が終わると皆沈黙をしてしまいました。

どこかギクシャクした雰囲気が漂う中、提案者の学生は取り繕うように笑いながら帰ってしまいましたが、私は唯一参加したアジア系の人間としてヨーロピアンの人たちの間でも未だに戦争の影響があるのだなと、目の当たりにした思いでした。

日本の戦争責任について問われる

たまたまドイツに関連した話を持ちだしましたが、私自身、アメリカのバーで初対面のアメリカ人から日本の戦争責任を問われて、閉口したことがございます。

またパーティーで他のアジア系の学生たちから、日本の戦争責任について凶弾されたと、顔を真赤にして帰ってきた日本人の友人も見たことがあります。

個人レベルでの感情も絡むため、戦争を知らない世代の私がどう過去と向き合っていいのか、わからないというのが本音です。

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知らないと傷付ける側になることも

わからないがゆえに、私自身も大きな過ちをしたことがあるかもしれません。
留学生時代、留学生たちとアメリカ人の学生たちが集う交流会で一人、アジア系のルックスをした女性がおりました。

私が声をかけると彼女はベトナム人とのこと(ベトナム系アメリカ人とはいわなかった)。他の留学生も加わり話に花が咲いたのですが、気になるのは彼女の英語力です。留学生にしては、アクセントのないしっかりした発音でまるでアメリカ人のようです。

理由を尋ねてみると彼女は生まれてすぐ渡米し、母語のベトナム語はほとんど解さないとのこと。当時英語で苦労していた時期だったので、私がうっかり彼女の英語力に感嘆すると、癇に障ったのか、私とは一切口を利いてくれなくなりました。

彼女の豹変した態度を不思議に思ったのですが、後年、アメリカの歴史について本を読んでいた際、アメリカがベトナム戦争の保障の一環として戦後、孤児をアメリカに引き取っていたことを知りました。ベトナム戦争は1975年に終結していますから、年齢的に計算が合います。

彼女がベトナム戦争の遺児であった確証はありません。しかし、もし彼女が心の中に母語であるはずのベトナム語を失った悲しみ、生い立ちに対する悔しさを内包したままアメリカに住まなければいけない現実を背負っていたとしたら、私の言葉は確かに彼女を傷つけるものでした。

もう一度彼女に会い、ことの真意を確かめたい気持ちがありますが、今となってはもう分かりません。

自国の知識だけでは十分ではない

こういった色々なバックグラウンドを背負う人たちが集うところで、相手の立場を思いやり、チャンネルを素早く切り替えながら対応していくには、非常に高度なスキルが要求されます。

ニューヨークの国連職員だった黒部紳一郎著「 ニューヨークの日本人 」でも、アルゼンチンの外交官に対して、フォークランド島の件を持ち出し、相手から「 フォークランド 」という呼称を訂正された(アルゼンチンではマルビナスというらしい)失敗談が紹介されています。

上記のような気まずくなるシチュエーションを避けるためには、世界の歴史や情勢を積極的に学ぶ姿勢が欠かせません。知らない間に誰かを傷つけているかもしれないと思ったら、なおさらです。

ですが困ったことに、歴史の本の紐をとくと、歴史は「戦争」「戦争」「戦争」の繰り返しなのです。それが日本だけでなく世界中の国々で争いが起きています。

すべての戦争、紛争、民族問題を完全に網羅することは不可能に近く、そこから派生する個人的な感情まで汲み取ると、膨大な勉強量になります。

この問題に対して何か妙案はないのか、考えあぐねていますが、方策が思いつきません。私のようにこれから海外に居住ないし留学される方は、居住先留学先の国の歴史の概要を本で調べ、生活するにつれ、必要になるか興味がわいた分野を調べていくしかないのではないでしょうか。

私がアメリカ人たちに話すエピソード

私は時々、アメリカ人の友人たちから、両親からアメリカに渡ってきたことをどのように思われているのかと尋ねられることがございます。

彼らからしてみれば、ご先祖様もアメリカに渡ってきたとはいえ、多くの場合遠い昔の話。望郷の思い(?)に駆られながら過ごす私を思いやっての質問かもしれませんが、私の両親はHappyだよと前置きし、私はいつもこのエピソードを話すことにしています。

私は幼少時、いつも父とお風呂に入っていました(アメリカでは子供が親とお風呂にはいることはちょっと「!?」ですが、この点は彼らに説明します)。父はいつも私に自分の子供の頃のことを話し、私は子供心に父が自分とは違い、死と間近にいた環境で過ごしていたことを知ったものです。

父は戦後、進駐軍が持ち込んだハーシーのチョコレートの包み紙を捨てずに、教科書の間に挟み、時折匂いを嗅いではチョコレートの思い出を楽しんでいたと言います。私の父は空襲で実家を失くしていますから、アメリカからのチョコレートは、甘いだけではない複雑な味がしたはずです。

息子の私がアメリカに居住し日本にたまに帰る現在、年老いた父は、お土産としていつも私に大量のチョコレートを持ち帰るようにいうのです。心理的にアメリカとチョコレートが切り離せないのではないかなと思います。

父のチョコレートへの憧れと、それを持ち帰るアメリカ帰りのバカ息子のコンビネーションが、父を喜ばすことは想像に難くありません。私は素直にトランクいっぱいのチョコを持ち帰り、父は意気揚々と友人や知人に配っております・・・

この話をすると、アメリカ人の友人たちは皆、進駐軍や空襲に関して私に触れたくないという心理が働くのでしょう、同様に、「ハーシーなんて安いし(ハーシーはアメリカでは駄菓子の部類)、手軽なお土産じゃない」という無難なコメントを返してくるので、私が、

「いやいや、彼はもう贅沢になってハーシーじゃ満足できなくて、ゴディバじゃないとダメなんだ」

と答えると、皆が大笑いになるというのがいつものオチなのですが、ここに過去を笑い話にできるという幸せがあることは否定できません。

私はテレビで式典を観ながら、これからの世代の方たちが、過去とどう向き合い、未来に向けてどのように異なるバックグラウンドの人達と人間関係を構築していくのか、考えておりました。

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