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海外生活で実感する個人主義の浸透と発展
先日、アメリカ在住の筆者が日本へ一時帰国をした際、酒の場での「イッキ」コールがなくなっていることに驚き、そのことから日本社会における個人主義の浸透について考えるようになりました。今回は個人主義の浸透と発展について筆者の考えをまとめてみました。
イッキ飲みの強要がなくなったのは個人主義の浸透なのか?
私が去年の12月に日本へ一時帰国をした際、ちょっと驚いたことがございます。それは、日本での飲酒に対する姿勢です。私が大学生だった20年ほど前は、大学生の飲酒は当たり前。サークルなどに入ろうとすれば、上級生から下級生に対して「イッキ」の連呼を浴びながらの飲み会は日常茶飯事、バイト先でも飲酒を勧められ、大学祭でも大量のビールが消費されていたものでした。
ところが日本で久しぶりに大学の同級生たちと会ったり、大学時代にお世話になったバイト先の職員の方々とお会いすると、そこまでもう飲まないとのこと。おそらく体に無理が利かない年齢になってきたこともあるでしょうが、日本の世相も変わりつつあるようです。
私と同様、飲酒をしない私の姉に尋ねたところ「世間的にも大量飲酒を避ける傾向が出てきた」そうで、簡単に健康ブームだけの影響とはいえないのではないでしょうか。アメリカに戻ってきてからいろいろ考えているうちに、日本社会における個人主義の浸透が関連しているのではないかと、考えるようになりました。
アメリカでの個人主義
私がアメリカでの生活が好きな理由のひとつに、自由をくれる「選択肢」のある生活が挙げられます。例えば、パーティーなどに出席をしても、必ず
「What would you like to drink?(何を飲みたいのか?)」
と尋ねられ、自分の飲みたい飲み物を指定することができます(よって下戸の私は酒を飲まなくて済みます)。
先日、健康診断を受けてきましたが、健康診断も個人の責任で行いますので、受ける受けないは個人の自由。会社は職員に強制することはできせん。401K(アメリカ企業が導入する私的年金制度)の参加も、老後を考える考えないは個人の自由。また、電車の定期券の支給に代わるガソリン代の負担も上級マネージャーにならないとまずありませんし、どこに住むかは個人の自由。会社が社宅や寮を提供してくれることも聞いたことがありません。
日本にいる私の友人の一部は、アメリカはドラッグと銃に溢れる社会だと考えていますが、実は、ドラッグや銃に一切触れないで生活することもまた可能なのです。
この「選択肢」に溢れる社会は、言い換えれば、個人主義の浸透した社会といえることができるかと思います。自由やプライバシーを尊重する個人主義の社会では、個人の自由は法のもとに保障されますが、その分、個人の責任は重くなります。
私はずっとキリスト教が個人主義の発展に大きく関与していると考えておりましたが、最近読んだ本、 浜本 隆志著「鍵穴から見たヨーロッパ―個人主義を支えた技術」 の中で「鍵が西洋での個人主義の発展に大きく寄与している」という内容を見て、日本と欧米での「家の間取り」の違いが個人主義と密接に関係しているのではないかと考えるようになりました。
本書ではルネサンス期に「個」への焦点が行われ、住居に個室が設定され、鍵がかかり、プライバシーの概念が生まれていったと説いています。実際、私も何度もヨーロッパの博物館や歴史施設に足を運んでいますが、中世のヨーロッパの家は概して狭く、個室などないのが見受けられました。トイレもありませんので、部屋の隅に壺が置いてある場合もございました。
この「家の間取りが与える個人への影響」については、 中根千枝著「適応の条件」 にも同様の指摘があり、 西尾幹二著「ヨーロッパの個人主義」 では、日本には本当の意味での私室がないと説いています。
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家の間取りの違いが与える影響
欧米の一般的な住居には個室が設定され、鍵がかかるようになっています。イギリスでホームステイした際にも、ほとんどすべての部屋のドアノブに鍵がかかるようになってあり、鍵による区分けが印象付けられました。
私はアメリカに長い間住んでおりますが、日本に帰るとアメリカでの生活とは違う、他者からの「囲まれ感」に戸惑うのです。うかつにオナラでもすれば、向こう三軒両隣り、すべての人に聞こえてしまうのではないかという妄想を抱いてしまうほどです。日本の家屋のほとんどが木造建築ということもあるでしょうが、部屋に中にいても、隣の部屋の人の気配の分かること、隣人の生活音、通りの車の音など、常に他者に囲まれている感覚に違和感を覚えるアメリカナイズされた日本人は私だけではないはずです。
「プライバシー」の概念自体が日本人にとっては外来のものである
なぜ、私がここまで文化の与える個人主義やプライバシーの概念にこだわるかというと、留学時代、個人と公共の概念のどこに線引きをするべきなのか、大変悩まされたからです。
私がアパートに移り住んだ頃、一般的に「経済発展途上国」と呼ばれる大国からの留学生と一緒に住んだことがあります。これが大きな問題を引き起こしました。
私はきれい好きで早起きですが、十数人の召使を母国で抱えていた当人は朝寝坊で一切家事をやらない。これだけでしたらあまり軋轢を起こしませんが、私が経済大国からの出身であるがゆえに、「飯を奢れ」など「パソコンを貸してくれ」など、面倒くさいことこの上なし。また、私のいない間に私の部屋に忍び込み、私の所有物を勝手に持ち去っていくのには閉口しました。
その都度、相手に注意をするのですが、当人はなぜ怒られているのか分からないようで、話し合いは平行線を辿るだけなのです。ここに大きな感覚の違いを感じざるをえないとともに、私はアパートを出ることを決意しました。
現在になって考えてみると、イギリスの植民地出身の彼に、個人主義の感覚やプライバシーを求めるには無理があったのではないかとも思います。実際、二言目に「アメリカ人は助けてくれない、何もしてくれない」とこぼしておりましたし、私より英語の上手い彼に、アメリカ人の友人がいないのを当時は不思議に思っておりましたが、こういった感覚の違いが地元の友人作りを阻害していたのかもしれません。
さらに深く考えてみると、プライバシーの概念だって、私たち日本人にとっても外来のものだということは如実です。なぜなら、「プライバシー」の適切な訳語が日本語にはありませんから。色々考えてみると、この個人主義やプライバシーの概念は、人間の持つ「自由」を求める欲求に応じて発展を遂げてきたのではないでしょうか。
実際、個人主義の感覚は日本だけでなく、個人主義のメッカ(?)、アメリカでも浸透し続けているようなのです。私がアメリカ人の友人たちと話していて驚いたのですが、彼らの親の世代では、あまり会社を変えることは行われず、ひとつの会社で退職するまで働くことが多かったとのこと。それが徐々に色々な会社を渡り歩く傾向が出始め、今では大卒が会社を変えることは一般的になりました。
さらに、アメリカは未成年の飲酒に対して非常に厳しい国ですが、今から30年ほど前は子供でもアルコールをお店で購入できたそうです。タバコも同様で、自由を保障する代わりに法規制が厳しくなっていることが伺い知れます。個人主義の浸透は全世界的に広がっているのかもしれません。
私の考える個人主義の発展
ここで私の考える個人主義の発展について述べます。
西洋で生まれた個人主義は、自由を求める人間の欲求に応じ、民主主義やプライバシーの概念を生む。ルネサンス以降、一般の民衆の家に普及してきた鍵のついた個室は、個人主義を助長。外でしていた排便も部屋の中でするようになり、よりプライバシーも重視。こういった流れを日本も受け継いできたのではないでしょうか。
日本は戦後、自由を求める民衆のための民主主義の国になってからまだ70年しか経っておりませんし、日本家屋の多かった戦前はおそらく、現在よりプライバシーは重視されなかったはずです。和室は洋室より区切られている空間とは言い難いですし、ふすまで区切る部屋は常に他者との連携を感じさせます。
現在は西洋家屋が多くなったとはいえ、壁の薄さ、木造建築や狭い住環境ゆえにアメリカやヨーロッパのような石造りやコンクリの家とは比べ物にならないぐらい、常に他人の気配がする住環境です。また、最近ではスマホやインターネットといったITによる情報社会が、この個人主義を助長しているのではないかと、私は考えています。
私の子供の時代は、一家にテレビが一台、電話が一台が普通でした。それが大学生ぐらいになると、PHSとE-mailなるものが出現し、黎明期は事務所でもパソコンを皆で共有しており、職員ひとりひとりにメアドは与えられませんでした。それが個々にメアドが支給され始め、携帯電話も一人一台に。携帯はスマホに取って代わり、いつでもどこでも、個人レベルでインターネットに接続するのが日常になりました。
情報を管理するのが個人レベルになった現在、プライバシーや自由を求める個人主義の浸透はとどまるところを知らないように思えます。私が大学生当時、バイト先の上司に酒を勧められ、断るのは大変勇気がいることでした。現在私はアメリカに住んでおりますが、日常生活でお酒を無理強いされることはあまりありません。
また喫煙も完全に区分されているので、非喫煙者は不快な思いをすることはありません。おそらく、日本でも近い将来「オレの酒が飲めないのか!」と上司が飲みたくない部下に強要することは難しい時代が来ることでしょうし、分煙の声も大きくなっているはずです。
ここで当然問題になってくるのは、他者と自分の折り合いです。他人との衝突を避けながら、どこまで自分の自由を押し通すべきなのか。おそらく海外に移住されると、自分の自由を押し通す尺度に混乱をきたすはずです。
例えば、アメリカでは一般的に社員が有休を使えるのは当たり前ですが、日系の会社ではなかなかそうもならないのが現状のようです。日本では祝日が多いですが、アメリカにはあまりありません。よって有休を使わないとほとんど休めないことになってしまうのです。
私はまだ他人と自分とのエゴのぶつかり合いにどう折り合いを付けるべきなのか、明確な解答ができておりません。おそらく一生、この問に対する決定的な答えは出てこないのではないかなと思いますが、社会の変貌を見つめながら、私は自分の自由を追求していきたいと考えています。